【9】
翌日――。
ボコボコにリゼリに殴られたクロードは、朝日に両手を合わせブツブル呟いていた。
「爽やかな風と審雷《しんらい》の『風雷の神シュジエルダ』様……。爽やかな風と審雷の『風雷の神シュジエルダ』様。爽やかな風と審雷の『風雷の神シュジエルダ』様……」
何度か風雷の神の名を呼び、
「もう少し癒しの勉強をしておくべきでした…っ。不出来な御使いで申し訳ございませんっ主神…!!」
がっくりと肩を落とした。
天使だから『癒しの力』を持っているわけでない。
天使と言う種族の能力―技術の一つが『癒しの力』なのだ。
得意な者もいれば、不得意な者もいる。クロードの場合は後者である。ある時まで、彼の天使としての存在に『癒しの力』は必要なものではなかった。
彼はただ、『嵐』を起こして過ごしていたのだから…。
嵐の後には、荒れた地しか残らずその後に残る物など目にもかけては無かった。
つまり、傷ついたモノには興味なかったのだ。
なので、癒しの力も能力を磨くことはなく過ごしてきた。
最近はようやく軽度の傷ならば難なく塞ぐことが出来るようになった。
癒しの力は、治癒力を高め肉体の再生力を促す方法と、己の生命《いのち》を切り分け与える方法の二種類がある。
リゼリに施そうとしてた力は、再生力を高める方法だ。
だが、不得意な者がその方法を取った場合――、促す力が効果を発揮過ぎて肉体の再生力が使い果たされ肉が腐り干からびる。
行使する力が弱ければ治らず、強ければ腐る。
眩しい日の日差しとは間逆のどんよりした雰囲気をまとい落ち込むクロードは、裏庭でリゼリが栽培している薬草や野菜に水をやる。
彼女は昨日の夜も遅くに寝たようでなかなか起きてこない。この分では朝食はクロードの担当となるだろう。別段、誰が作るという役割分担はしていない。不慣れなクロードに教えるために共に台所に立つことのほうが多く、小言のようにクロードの動作に文句を言うリゼリを思い浮かべた。彼女から流れてくる気配はどこか、そう――。
(不味い…?)
胃の辺りをクロードは摩る。
空腹を訴えることなど無かった身体の変化に戸惑いながら朝食の段取りを考える。
マルアの店から購入したパンを焼いて、昨晩のスープとチーズを焼いたもので朝食はいいだろう。
そんな風に考えながら、水やりを終えたクロードは台所へと向かった。
***
真っ暗な場所に篭り、恐ろしさで喉がかすむ。
助かったことに驚き、何故生きているのだと己を蔑み、生かした老女を恨んだ。
恐ろしい、恐ろしいのだ。人間が―。赤い血が流れる刃を持った人間が。古より歌われる魔物《グール・ワース》よりも恐ろしい。
恐怖で声を失い、暗闇に隠れる。闇は心地良い。すべてを黒く染めてくれる。この体に刻まれている『証』すら、見て取れない。殴られない、叩かれない、蹴られない―。真っ暗な部屋は、心地良い…。
少女は闇に身を任せる。体を覆った灰色の布は少女に与えられた寝台のシーツだった。クローゼットの中で彼女は脅える。
そんな彼女の日常に、光が差した―。
まばゆい光。
クローゼットの扉が開かれた。
光は、微笑んだ。
逆光で表情が見えないはずなのに、微笑んだと―思った。
金色の、少女だった。そのまばゆさに、彼女は目を細めた。
そして灰色のシーツを隠れるように頭からかぶった。
「あなたのお名前は?」
くすんだ金色の髪色の少女が微笑みながら脅える少女に告げた。
「わたしはニーナ!お友達になろうよ!」
そう言って手を差し伸べ――、その手を握りしめる前に、彼女の『記憶』の場面(シーン)は変わる。
じめじめとしたカビ臭い牢屋の中で泣き顔を隠す少女の名を、ニーナが呼ぶ。
呼び声と共に、牢屋はかき消えて、
「大丈夫?ごめん、ごめんねっ」
ニーナがぼろぼろと涙をこぼし、そして咳き込む。
身体をくの時に折り、激しくせき込み――口元を押さえた手から、鮮血がこぼれる。
ごめ、ん、なさい――。
そう言って、ニーナが倒れた。
その様を、殴られ、叩かれ、蹴られ、その身の『証』を暴かれた少女は――、老女のなきがらの前で告げる。
「報いよ」
冷酷に、そう告げる。
「あたしたちをめちゃくちゃにした、報いよ。ざまあみなさい――、ずっとずっと、っ苦しめばいい!!」
少女――リゼリは悲鳴のような、絶叫を上げた。
「ぃいっ」
悲鳴のような声と喉の引きつる痛みを覚えて、リゼリは飛び起きた。
額からこぼれる汗を手の甲で拭い、荒い息を整え、
「……、ぁははは」
笑い声を上げた。
涙が、自然とあふれた。
「なにが『奇跡』よ…。馬鹿じゃないっ」
くしゃくしゃにした布団に顔を押し付けて、声を殺して泣いた。
しばらくしてパンの焼く匂いが漂い始め、あの天使が朝食の準備をしているのだと気づいた。
声を押し殺して泣く行為は、体力がいる。泣き声をこらえるので喉は引きつる感じで傷む。
目も、鏡を見ればきっと赤くなって腫れているだろう。
寝不足――としてごまかすことができればいいけれど、どうも無理そうだ。
リゼリは小さく笑った。
こんな日は、いつも休業していた。
不意に昔の夢を見ると、――こらえきれないほど憎くて、悔しくて、そして悲しい…。
いつも突然奪われる。
暖かな場所が――。
その喪失の恐怖に脅える。
リゼリは布団にもぐりこみ、
(……、奇跡なんて―――、馬鹿みたい)
そう、心の中で呟いて再び瞼を閉じた。
***
昼近くになる。
朝食を取らなかったリゼリのために、
しばらく考えに浸っていると入口の扉に備え付けられていたベルが鳴る。
一人の女性が入店し、クロードを見て驚き、にっこりと微笑んだ。
「風薬はある?」
微笑を浮かべて彼女は問う。
ふわりと香る、花の香り――。
赤味を帯びた金の長い髪、赤茶色の瞳…そして、胸ぐりの広い黒い喪服の様なワンピースを着ている――色香の漂う美しい女性だ。
その女性の微笑に、一瞬ドキリと胸が鳴る。
(…この香り――)
知っている…。
そう思いながら、なるべく顔に出さないように落ち着いて女性の問いかけに答える。
「いらっしゃいませ。粉薬と液体がありますけれど、どちらにしますか?」
「液体でお願いします」
女性は、そう答えながらクロードをじっと見つめる。
慣れない接客にしくじらないようにと一生懸命対応するクロードは女性の視線に気づかない。
それ以前に、彼女から漂う香りにくらりと眩暈を起こしそうになる。
「お待たせしました、銀12枚です」
「はい。12枚」
何処となく引きつった笑顔を浮かべたクロードの掌に銀貨を12枚落とし、
「貴方が噂のリゼリちゃんの彼氏?」
赤茶色の瞳をきらきらと輝やかせてクロードに問う。
クロードはさらに引きつった笑顔を浮かべ、渇いた笑い声を上げた。
物珍しく覗きに来る客が居なくなったかと思うのにまだまだ、こういった客が時折来る。
「あ、ははは。違いますよ…」
渇いた笑いと引きつった声。
女性はあらら、「残念」と、ある棚の前に行き、小瓶を取ると「これもついでに、ね」とウィンクした。
「え?あ、金3枚…ですけど…」
"ついで"の買い物の金額が風薬の倍以上だ。
困惑しているクロードに金貨を3枚渡し、
「はい」
満面の笑みで、小瓶も渡す。
「は?」
「それ、使ってね?」
ふふふ、と笑いを浮かべてる女性に、
「え?あの使うって――」
「び・や・く」
「は?」
「催淫剤よ。乱れるわよ~」
「…は?」
女性の高い声色と間逆に、低音の問いかけ。
クロードは目の前の女性を異なる者として見た。
もしくは、化け物・魔物の類と一緒の目付きだ。
さらに、彼女から香る――花の香り。
バラ科の確か――。
「あら、睨まれてる?んー、駄目?」
「とてもお話についていけないのですが…?」
「リゼリちゃんはガード固いから、なかなか落ちないのよね。素材はいいけど、…。知ってる?意外と胸大きいのよ」
囁くように女性は告げる。と、なぜか初めて彼女と出会った時が浮かび上がる。
一瞬、天界に戻ったかと思わせるほど神秘的な情景。
水飛沫と、羽根と…そして、濡れた…月光の下の――白い裸体――。
左腕に巻かれていた包帯――。
(ん?)
一瞬、記憶に何かが引っかかる。
そして、目の前の女性がニマニマとしている。
「あらら。もしかして――」
もう、しちゃってた?
そう視線が問いかける。
女性の言葉を精一杯遮るように、叫ぶように声を上げ、
「っ…あの、なにか勘違いしているようで!」
「ん?あれ?じゃあ、リゼリちゃんの片想いかなぁ~?」
その天が裂けるような台詞に、クロードは慄いた。
上げる声はない。
ただ、純粋に、――-あり得ない、と戦慄したのだ。
「だって、あの人嫌いにも似通ったリゼリちゃんが従業員雇ったんだもの。しかも男!絶対これは何かあるって――あれ?君、大丈夫?」
片想い発現に固まってしまったクロードに、女性はおーいと声をかける。我に返ったクロードが、渡された小瓶を突き返して、
「あり得ません!天神に誓ってあり得ない!!」
真っ青な顔つきで震える。
「あらまあ?すごい拒否反応、でもこれは取っておいた方が良いわよ。なんたって、―――うふふふ。すごいのよ~。飽きさせないっていうか、飽きることない?て言うか――、善がり狂うってああいう事を言うのよね~」
陶酔した瞳で突き返された小瓶をさらに突き返し、
「リゼリちゃんに使えないなら――私でどう?ねえ――君…」
ずいっと迫られる。
胸ぐりの広いワンピース覗く――女性の胸。豊満…とは言い難いが、少なくとも小さくはない。
クロードは引きつった顔で「遠慮します」と答えると、「じゃあ、君に使ってみようかしら」と小瓶を開け――、瓶の口をクロードに向けた。
「なっ」
にを――。
そう言葉を上げ、女性の香りに視界が揺れた。
「人の店で何してんよ。ミレンダさん」
白けたリゼリの声が店内に響く。
クロードと女性―ミレンダはその声の方向――店と住まいを分ける開いた扉の前に立つリゼリを見た。
「あらあらあら。ちょっと乱れる彼が見たくて~。ヤダ、起こらないで?」
小瓶に蓋をして、瓶を指先でつまみながらぷらぷらと左右に振る。
クロードは女性から素早く身を離し店の隅に隠れると、
「怯えちゃって…」
妖艶に微笑む彼女を半眼でリゼリは見た。
「経験豊富のハーバルの居酒屋の未亡人オーナーが経験ゼロに近い男をもてあそんで楽しいの?」
「あら?ゼロなの?そんな風には見えないけど~ねえ、君?ゼロなの」
「止めてください!なんてこと聞くんですか!!」
顔を真っ赤に染め上げたクロードが女性とリゼリに喚く。
リゼリは、そんなクロードを「ほらっ」と指さし――、女性はあらら。と驚く。
「あり得ないから。これが『アリ』なんて」
「じゃあ、リゼリちゃんは『アリ』?」
ぷらぷらと小瓶を見せつける女性。
「さあ?ご想像にお任せします」
「じゃあ、『ナシ』ね。調教のし甲斐があるわ~。処女《リゼリちゃん》が堕ちる様ほどそそるものはないものね」
うっとりと息をつく女性の嗜虐性に、リゼリは迷惑な客の撃退用に隠していた長物の箒を取り出し、
「すみませんねー。お客様。ああーっと蜘蛛が~」
あからさまに演技だと分かる棒読みの言葉で箒をぶんぶんとふる。
「ちょ、ちょっと!リゼリさん?!」
箒を振ることによって埃が舞い、先程掃除したばかりの商品に埃が積もる。
非難の声を上げるもリゼリは無視。
「あらら、怒らせちゃった」
女性はぺろりと舌を出し、クロードの手に小瓶を押し付けて――、
「使ってね」
そう言って彼の頬にキスを落とし――至近距離で香る彼女の香り――。
ミランダはリゼリに手を振りながら、紙袋に入った風薬を手にして軽やかな足取りで店から出て行った。
翌日――。
ボコボコにリゼリに殴られたクロードは、朝日に両手を合わせブツブル呟いていた。
「爽やかな風と審雷《しんらい》の『風雷の神シュジエルダ』様……。爽やかな風と審雷の『風雷の神シュジエルダ』様。爽やかな風と審雷の『風雷の神シュジエルダ』様……」
何度か風雷の神の名を呼び、
「もう少し癒しの勉強をしておくべきでした…っ。不出来な御使いで申し訳ございませんっ主神…!!」
がっくりと肩を落とした。
天使だから『癒しの力』を持っているわけでない。
天使と言う種族の能力―技術の一つが『癒しの力』なのだ。
得意な者もいれば、不得意な者もいる。クロードの場合は後者である。ある時まで、彼の天使としての存在に『癒しの力』は必要なものではなかった。
彼はただ、『嵐』を起こして過ごしていたのだから…。
嵐の後には、荒れた地しか残らずその後に残る物など目にもかけては無かった。
つまり、傷ついたモノには興味なかったのだ。
なので、癒しの力も能力を磨くことはなく過ごしてきた。
最近はようやく軽度の傷ならば難なく塞ぐことが出来るようになった。
癒しの力は、治癒力を高め肉体の再生力を促す方法と、己の生命《いのち》を切り分け与える方法の二種類がある。
リゼリに施そうとしてた力は、再生力を高める方法だ。
だが、不得意な者がその方法を取った場合――、促す力が効果を発揮過ぎて肉体の再生力が使い果たされ肉が腐り干からびる。
行使する力が弱ければ治らず、強ければ腐る。
眩しい日の日差しとは間逆のどんよりした雰囲気をまとい落ち込むクロードは、裏庭でリゼリが栽培している薬草や野菜に水をやる。
彼女は昨日の夜も遅くに寝たようでなかなか起きてこない。この分では朝食はクロードの担当となるだろう。別段、誰が作るという役割分担はしていない。不慣れなクロードに教えるために共に台所に立つことのほうが多く、小言のようにクロードの動作に文句を言うリゼリを思い浮かべた。彼女から流れてくる気配はどこか、そう――。
(不味い…?)
胃の辺りをクロードは摩る。
空腹を訴えることなど無かった身体の変化に戸惑いながら朝食の段取りを考える。
マルアの店から購入したパンを焼いて、昨晩のスープとチーズを焼いたもので朝食はいいだろう。
そんな風に考えながら、水やりを終えたクロードは台所へと向かった。
***
真っ暗な場所に篭り、恐ろしさで喉がかすむ。
助かったことに驚き、何故生きているのだと己を蔑み、生かした老女を恨んだ。
恐ろしい、恐ろしいのだ。人間が―。赤い血が流れる刃を持った人間が。古より歌われる魔物《グール・ワース》よりも恐ろしい。
恐怖で声を失い、暗闇に隠れる。闇は心地良い。すべてを黒く染めてくれる。この体に刻まれている『証』すら、見て取れない。殴られない、叩かれない、蹴られない―。真っ暗な部屋は、心地良い…。
少女は闇に身を任せる。体を覆った灰色の布は少女に与えられた寝台のシーツだった。クローゼットの中で彼女は脅える。
そんな彼女の日常に、光が差した―。
まばゆい光。
クローゼットの扉が開かれた。
光は、微笑んだ。
逆光で表情が見えないはずなのに、微笑んだと―思った。
金色の、少女だった。そのまばゆさに、彼女は目を細めた。
そして灰色のシーツを隠れるように頭からかぶった。
「あなたのお名前は?」
くすんだ金色の髪色の少女が微笑みながら脅える少女に告げた。
「わたしはニーナ!お友達になろうよ!」
そう言って手を差し伸べ――、その手を握りしめる前に、彼女の『記憶』の場面(シーン)は変わる。
じめじめとしたカビ臭い牢屋の中で泣き顔を隠す少女の名を、ニーナが呼ぶ。
呼び声と共に、牢屋はかき消えて、
「大丈夫?ごめん、ごめんねっ」
ニーナがぼろぼろと涙をこぼし、そして咳き込む。
身体をくの時に折り、激しくせき込み――口元を押さえた手から、鮮血がこぼれる。
ごめ、ん、なさい――。
そう言って、ニーナが倒れた。
その様を、殴られ、叩かれ、蹴られ、その身の『証』を暴かれた少女は――、老女のなきがらの前で告げる。
「報いよ」
冷酷に、そう告げる。
「あたしたちをめちゃくちゃにした、報いよ。ざまあみなさい――、ずっとずっと、っ苦しめばいい!!」
少女――リゼリは悲鳴のような、絶叫を上げた。
「ぃいっ」
悲鳴のような声と喉の引きつる痛みを覚えて、リゼリは飛び起きた。
額からこぼれる汗を手の甲で拭い、荒い息を整え、
「……、ぁははは」
笑い声を上げた。
涙が、自然とあふれた。
「なにが『奇跡』よ…。馬鹿じゃないっ」
くしゃくしゃにした布団に顔を押し付けて、声を殺して泣いた。
しばらくしてパンの焼く匂いが漂い始め、あの天使が朝食の準備をしているのだと気づいた。
声を押し殺して泣く行為は、体力がいる。泣き声をこらえるので喉は引きつる感じで傷む。
目も、鏡を見ればきっと赤くなって腫れているだろう。
寝不足――としてごまかすことができればいいけれど、どうも無理そうだ。
リゼリは小さく笑った。
こんな日は、いつも休業していた。
不意に昔の夢を見ると、――こらえきれないほど憎くて、悔しくて、そして悲しい…。
いつも突然奪われる。
暖かな場所が――。
その喪失の恐怖に脅える。
リゼリは布団にもぐりこみ、
(……、奇跡なんて―――、馬鹿みたい)
そう、心の中で呟いて再び瞼を閉じた。
***
昼近くになる。
朝食を取らなかったリゼリのために、
しばらく考えに浸っていると入口の扉に備え付けられていたベルが鳴る。
一人の女性が入店し、クロードを見て驚き、にっこりと微笑んだ。
「風薬はある?」
微笑を浮かべて彼女は問う。
ふわりと香る、花の香り――。
赤味を帯びた金の長い髪、赤茶色の瞳…そして、胸ぐりの広い黒い喪服の様なワンピースを着ている――色香の漂う美しい女性だ。
その女性の微笑に、一瞬ドキリと胸が鳴る。
(…この香り――)
知っている…。
そう思いながら、なるべく顔に出さないように落ち着いて女性の問いかけに答える。
「いらっしゃいませ。粉薬と液体がありますけれど、どちらにしますか?」
「液体でお願いします」
女性は、そう答えながらクロードをじっと見つめる。
慣れない接客にしくじらないようにと一生懸命対応するクロードは女性の視線に気づかない。
それ以前に、彼女から漂う香りにくらりと眩暈を起こしそうになる。
「お待たせしました、銀12枚です」
「はい。12枚」
何処となく引きつった笑顔を浮かべたクロードの掌に銀貨を12枚落とし、
「貴方が噂のリゼリちゃんの彼氏?」
赤茶色の瞳をきらきらと輝やかせてクロードに問う。
クロードはさらに引きつった笑顔を浮かべ、渇いた笑い声を上げた。
物珍しく覗きに来る客が居なくなったかと思うのにまだまだ、こういった客が時折来る。
「あ、ははは。違いますよ…」
渇いた笑いと引きつった声。
女性はあらら、「残念」と、ある棚の前に行き、小瓶を取ると「これもついでに、ね」とウィンクした。
「え?あ、金3枚…ですけど…」
"ついで"の買い物の金額が風薬の倍以上だ。
困惑しているクロードに金貨を3枚渡し、
「はい」
満面の笑みで、小瓶も渡す。
「は?」
「それ、使ってね?」
ふふふ、と笑いを浮かべてる女性に、
「え?あの使うって――」
「び・や・く」
「は?」
「催淫剤よ。乱れるわよ~」
「…は?」
女性の高い声色と間逆に、低音の問いかけ。
クロードは目の前の女性を異なる者として見た。
もしくは、化け物・魔物の類と一緒の目付きだ。
さらに、彼女から香る――花の香り。
バラ科の確か――。
「あら、睨まれてる?んー、駄目?」
「とてもお話についていけないのですが…?」
「リゼリちゃんはガード固いから、なかなか落ちないのよね。素材はいいけど、…。知ってる?意外と胸大きいのよ」
囁くように女性は告げる。と、なぜか初めて彼女と出会った時が浮かび上がる。
一瞬、天界に戻ったかと思わせるほど神秘的な情景。
水飛沫と、羽根と…そして、濡れた…月光の下の――白い裸体――。
左腕に巻かれていた包帯――。
(ん?)
一瞬、記憶に何かが引っかかる。
そして、目の前の女性がニマニマとしている。
「あらら。もしかして――」
もう、しちゃってた?
そう視線が問いかける。
女性の言葉を精一杯遮るように、叫ぶように声を上げ、
「っ…あの、なにか勘違いしているようで!」
「ん?あれ?じゃあ、リゼリちゃんの片想いかなぁ~?」
その天が裂けるような台詞に、クロードは慄いた。
上げる声はない。
ただ、純粋に、――-あり得ない、と戦慄したのだ。
「だって、あの人嫌いにも似通ったリゼリちゃんが従業員雇ったんだもの。しかも男!絶対これは何かあるって――あれ?君、大丈夫?」
片想い発現に固まってしまったクロードに、女性はおーいと声をかける。我に返ったクロードが、渡された小瓶を突き返して、
「あり得ません!天神に誓ってあり得ない!!」
真っ青な顔つきで震える。
「あらまあ?すごい拒否反応、でもこれは取っておいた方が良いわよ。なんたって、―――うふふふ。すごいのよ~。飽きさせないっていうか、飽きることない?て言うか――、善がり狂うってああいう事を言うのよね~」
陶酔した瞳で突き返された小瓶をさらに突き返し、
「リゼリちゃんに使えないなら――私でどう?ねえ――君…」
ずいっと迫られる。
胸ぐりの広いワンピース覗く――女性の胸。豊満…とは言い難いが、少なくとも小さくはない。
クロードは引きつった顔で「遠慮します」と答えると、「じゃあ、君に使ってみようかしら」と小瓶を開け――、瓶の口をクロードに向けた。
「なっ」
にを――。
そう言葉を上げ、女性の香りに視界が揺れた。
「人の店で何してんよ。ミレンダさん」
白けたリゼリの声が店内に響く。
クロードと女性―ミレンダはその声の方向――店と住まいを分ける開いた扉の前に立つリゼリを見た。
「あらあらあら。ちょっと乱れる彼が見たくて~。ヤダ、起こらないで?」
小瓶に蓋をして、瓶を指先でつまみながらぷらぷらと左右に振る。
クロードは女性から素早く身を離し店の隅に隠れると、
「怯えちゃって…」
妖艶に微笑む彼女を半眼でリゼリは見た。
「経験豊富のハーバルの居酒屋の未亡人オーナーが経験ゼロに近い男をもてあそんで楽しいの?」
「あら?ゼロなの?そんな風には見えないけど~ねえ、君?ゼロなの」
「止めてください!なんてこと聞くんですか!!」
顔を真っ赤に染め上げたクロードが女性とリゼリに喚く。
リゼリは、そんなクロードを「ほらっ」と指さし――、女性はあらら。と驚く。
「あり得ないから。これが『アリ』なんて」
「じゃあ、リゼリちゃんは『アリ』?」
ぷらぷらと小瓶を見せつける女性。
「さあ?ご想像にお任せします」
「じゃあ、『ナシ』ね。調教のし甲斐があるわ~。処女《リゼリちゃん》が堕ちる様ほどそそるものはないものね」
うっとりと息をつく女性の嗜虐性に、リゼリは迷惑な客の撃退用に隠していた長物の箒を取り出し、
「すみませんねー。お客様。ああーっと蜘蛛が~」
あからさまに演技だと分かる棒読みの言葉で箒をぶんぶんとふる。
「ちょ、ちょっと!リゼリさん?!」
箒を振ることによって埃が舞い、先程掃除したばかりの商品に埃が積もる。
非難の声を上げるもリゼリは無視。
「あらら、怒らせちゃった」
女性はぺろりと舌を出し、クロードの手に小瓶を押し付けて――、
「使ってね」
そう言って彼の頬にキスを落とし――至近距離で香る彼女の香り――。
ミランダはリゼリに手を振りながら、紙袋に入った風薬を手にして軽やかな足取りで店から出て行った。
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