8

【8】


 ディックの足取りは、行きよりも幾分か軽かった。
行きはジェシーの件で重苦しい足取りだったのだが…。
彼は『翡翠』を出てから必死に笑いをこらえているが、「ぐぶふぅっ」と堪え切らなくなった笑い声が上がる。
今の時間帯は人通りが少ないのでディックを奇妙な目で見るものはいない。いたとしても、カルバ商会の『石工工芸』に惚れこんで家を飛び出た長男が、変――とは、町の誰もが周知している。
石像を見る、キラキラしているディックも一部では名物だ。「またキラキラしてるよ、アイツ」の、ような感じで町の人々は夢に向かって前進する青年を生暖かい目で見ている。
だが、ディックのせいで望んでいた将来を失ったも者もいる――マルスだ。
その為に、カルバ兄弟は険悪な雰囲気となってしまっている。
両親もどうしたものか…と悩んでいるが、一方を応援すると一方がどうしても稼業で束縛される。
そう感じるのならば、いっそルイスが一代で築いた商会をルイスの代で終わらせようか…とも周囲と話が進んでいたりする。

 「あははははははは!」
足取りが軽いディックは子供のように新しい『発見』に喜んでいた。
(にしても、やっぱり驚いたな――リゼリに男が出来たことが)
完全なる勘違いだが、そうディックを確信させることがあった。
クロードと言う青年は微かに森の香りがした。
石工工房は、町はずれの森の中にあるのでその香りは嗅ぎなれたものだ。
そして、『翡翠』は薬屋だ。薬品のにおいが充満する――と言う事はないが、薬臭い。
もちろん、それを調合するリゼリもその匂いが付いている。
そのリゼリが、今日近づいた時に『森』の匂いがした。
それはすぐ隣の男と同じ匂いだ。
移り香が移る行為など、分かり切ったものだ。
本当は、クロードの肩を掴んでいろいろ聞いておきたかった。

「あー、あいつにも春か~」

どこか遠い目で過去に思いをはせる。
始めてバルッシャに連れられてやってきたリゼリの手を引いて、マルスや町の子供たちの輪に無理やり押し込んだものだ。
懐かしさに、息をつく。
「あの爆発娘にねぇ」
ニタニタと不審者極まりない笑いがこぼれる。
(まだ俺だけが知っている情報だよなこれは!くくく)
笑いをこらえる。
もちろん、ディックが思っていることはない。
明日にはリゼリと仲の良い知人には行きわたっているだろう。
そして、それを言いふらしたディックがリゼリに強烈な制裁を受けることも――きっと目に見えている。

だが、この時のディックは面白いものを見つけた『発見』で浮かれていた。

 「あら、ご機嫌じゃない?」

浮かれていたディックはヒヤリとした。
その女声は聞き知った声だったからだ。
以前は良く彼女の店に食べ物をねだりに行っていたが…、ここ数年で豹変した彼女をディックはあまり良く思ってはいない。けれど、声をかけられたからには振り返らなければ失礼だろう――。
そう思い振り返ると、ふわりと香る、花の香り――。
一瞬、くらりと来る。

甘いその香りは、まるで雄を引き寄せるかのような――蜜の香り。

「あら、どうかした?」
目の前に見知った女性がいた。
赤味を帯びた金の長い髪、赤茶色の瞳…そして、胸ぐりの広い谷間を強調する黒い喪服の様なワンピースを着ている――色香の漂う娼婦の様な美しい女性だ。
「……いえ、ミランダさんの香水がキツ過ぎて」
ギリっと奥歯を噛みしめる。
香りに――、身体がゾクゾクしてしまっている。
嫌みを込めた言葉にミランダと呼んだ女性を睨む。
「ああ、そうかもしれないわね。さっきね、香水の瓶を倒してしまった時にかかってしまったの。洗ったのだけど…ぅん?」
袖口を鼻の位置に持って行き匂を嗅ぐ。
「ごめんなさいね、この香水は毎日付けてるから、よくわからないわ――匂いに酔ってしまったのなら私の酒場に居らっしゃいな。冷たいお水を出してあげるわよ」
そう言って、腕をからませるミランダの腕から慌てて逃れ、
「冗談止めてくれ!」
そう悲鳴のような声を上げた。すると、ミランダはくつくつと身体を折り曲げて笑う。
「あら~。まさか『食べられて』しまうとでも思っていたのかしら。安心して?私ね、君なんか、一切誘ってなんかいないわよ。ねえ、ディック?」
香りに意識がくらりとする。

(く、そっ!!)

いつのころか、この厄介な香りを付け始めた。
出所は聞く気もない。そもそも辺でこの手の『薬』を販売する人間なんて大凡見当がつく。

――この香りで『落ちた』町の男は何人か。

「あら、その紙袋…『翡翠』ね。そう言えば彼女のところに男の人の従業員が入ったって言うけど――」
「……」
「ニーナちゃんの薬ね、それ。リゼリちゃんの調合薬は逸品だもの。ジェシー君が変に噂をバラまかなければ、今頃『翡翠』はバルッシャーさんの時と同じくらい繁盛していたでしょうね。かわいそうに…」
その言葉に、かわいそうと言って笑うミランダにディックがほの暗い怒りを向ける。
「あら、睨まないで。町の誰ものが知る事実でしょう?可哀想に――あのままじゃ、あの店がつぶれてしまうわね。従業員を雇う余裕なんて…あったのかしら?」
不思議、と首を捻りながらも笑みを深くし、ミランダは肩にかかった赤味を帯びた金の髪を払った。
「リゼリと関わるなっ」
「あら?ディック、それは命令なのかしら?」
わざとらしく、芝居掛かった風に目を丸くしたミランダにディックは喚く。
「――命令じゃない。ミランダさんへのお願いだっ」
「じゃあ、無理ね。私あの子のこと好きよ――、もう少しすれば私と同じように『泥まみれ』になるわ。完全に――」
その言葉に、ディックは買ったばかりの薬をミランダに投げつけようと腕を振り上げ、

「ディック、優しくて優しすぎて、気の回し過ぎな『男の子』――。もう、二十一歳になる君はまだ私にとってはわんぱくで優しい『男の子』よ。貴方がニーナちゃんの味方なら、私がリゼリちゃんの味方になるしかないでしょう?あの、可哀想な子の」

悠然と微笑む彼女に――投げつけられず、袋が地面に落ちた。



***



 気が済むまでクロードを叩き続け、気が済んだのかお腹が減ったのか――食事の準備を始めたリゼリにクロードは恐る恐る聞いた。

「ディックさんはルイスさんの息子さんなんですよね?」
「そうよ」
裏庭から取ってきた葉野菜を千切り、厚めにスライスした丸パンにゆで卵と葉野菜とハムを挟んで、ナイフで二つに切る。
それを皿に盛り付け、クロードに紅茶を出すよう急かす。
席に座ったリゼリの横にクロードはお金持ちの家にいると言われる『執事』のようにポットを持って立った。ちなみに、言われる―というのは、リゼリもクロードも見たことが無いためだ。
急かされたクロードは、不慣れな手つきで手順を思い出しながら、紅茶をカップに注ぐ。
香りよく出た紅茶を一口飲んだリゼリが、

「! おいしい…」

驚いて声を上げると、
「ほんとですか!?」
とクロードまで声を上げた。
「嘘なんか言わないよ。美味しいから美味しいっていったの。まあ、紅茶くらい人並みに入れられなきゃね」
むっとして、もう一口飲む。
(……なにこれ、美味しいじゃない…。あの渋いか薄いかしかできなかったバカが、ここまで…)
紅茶の水面に映る自分の顔を見ながら、リゼリは自分がしごいた苦労が報われた感動を感じていた。
これは、

(ビシバシ扱けば、もっと何かできそうかも!)

薬だけじゃあ、きっと今のリゼリでは駄目だ。
ティーカフェなどどうだろうか?裏庭には薬草としての用途でハーブをたくさん植えている。
花が咲くハーブもあるから、花茶でもよさそうだ。
そう考えたときに、リゼリは「あ!」と声を上げた。
(あ、そろそろアサルクスの蜜が取れる時期かな…。リップクリーム作らないと…)
蜜が少量の為に作ったところで販売できる量は限られている。
いつもリップクリームを買い求めにやってくる女性たちの名前を呟いた。
マルアやローラ、アメシタそれに…。

(ミランダさんにも個数聞いておかないと…)

リゼリを贔屓にしているワケありの顧客の顔を思い浮かべてふと、この間の香水どうだったかな?と思いをはせる。
異性を魅了し虜にする、『魅惑の香水』。
伴侶のいる男にとってはたまったものじゃない効果が出るようだが、
「リゼリさん~?」
(まあ、ミランダさんだしねー…。自分にかかる火の粉くらい、自分の身で払うだけの女性だし~)
無責任なことを胸中呟く。
男女関係で刃傷沙汰もしょっちゅうの彼女は、町で評判は良くはない。
そんなミランダを顧客にしているリゼリも――あまり評判がよくはない。けれど、リゼリは彼女のことは嫌いではない。
マルアやアメシタは彼女のことになるとリゼリに口うるさく酸っぱく告げる。

関わるな――と。

リゼリが『第二』のミランダにならないように、見張っていることも知っていた。
まあ、リゼリが『連れ込んだ』クロードのへたれっぷりに彼女らの危機感はなくなったようだが…。

(嫌いじゃないんだよね…ちがう、嫌えないんだよね…)

ミランダの笑顔を思い出す。
昔は今の様な、何もかも諦めた笑顔ではなかった、すべてを嘲笑う人ではなかった。
心底うれしそうな――楽しそうな…そんな綺麗な微笑みを浮かべる人だった。
町での遊び仲間だった、ディックやニーナ、マルスなど小銭を持ってミランダの夫の定食兼居酒屋で甘い出来たてのパンケーキなどよく食べに行っていた。
いまでは、あの出来たてのパンケーキは『ない』。
昼の定食業をやめ、夜の酒屋業のみ行っている。そして―――、

「娼館かぁ…」

ハーバルの町の町長すら驚いたこと――いつの間にか『領主』より許可を取り、酒屋の二階で娼婦として男の客を取り始めたのだ。
噂では、その筋のパトロンに手を貸してもらったとか何とか。
と、覗きこむ形で――クロードの顔がリゼリの間近で止まっている。
反応の無いリゼリをいぶかしんだクロードが覗きこんだときに、突然「娼館」などと言う言葉が出れば何事かと驚くだろう。そして、クロードは驚いて、固まった。

リゼリを覗き込む形で――、顔がすぐ側にある。

それに目を見張り、

「のぁぁ?!」

女の子らしからぬ叫び声を上げてのけ反り、手にしていたカップを膝の上に落としてしまった。
紅茶がワンピースにかかると同時にカップが転がり落ちて割れる。

「あちぃ!!」

「リゼリさん!?」
慌ててリゼリはスカートをまくりあげ、
「た、タオルタオル!!早くタオルーーー!!」
濡れたスカート部分を太股で縛るように丸め――、クロードにタオルを持ってくるように叫ぶ。クロードは慌てて――そして、なぜか顔を赤くして台所へと濡れタオルを取りに駆けこんだ。
水に浸したタオルを手に戻ってきたクロードはリゼリから目をそらし、渡す。
濡れタオル受け取り太股に当てて、クロードを怒鳴りつけた。
「クロード!アンタねぇぇぇ!!」
「す、すみません。呼んでも反応がなくて、それで――」
「それで何!?」
「いえ、それで…」
椅子に座ったまま太股に押し付けるているその姿に、しどろもどろとうろたえる。
うろたえて、

「いえ、視線もぼうっとしてたのでなにかあったのかと!」

そう言ってリゼリから視線を外しうつむく。
クロードはどう反応していいのか、分からない。
下着のぎりぎり――というか、ピンク色の下着が微かに見える――まで上げられたそのスカート。
白い肌が紅茶の熱で赤くなっている様は痛々しいが、その「下着見えてます!」と言う言葉が出てこない。
言ったら、殴られ――きっとさらに金を請求される。
熱い紅茶がかかったせいか慌ててしまったせいかは分からないが―――涙目のリゼリの姿にクロードは動揺していた。

「す、すみません!!いま治します!」

そう言ってクロードはリゼリの座る椅子の前にしゃがんだ。
下着は見ないように、クロードは火傷の部分だけ視線を向けた。
その様にリゼリはぎょっとして自分の今の格好に気づいた。
「ちょ!な?!」
慌てて身体をクロードから離そうとしたが、それよりも先にクロードが動いた。
タオルを取り除き、リゼリの太股にその手を這わせ――、

「なにすんのよ!変態!!」

ガツンとリゼリに脳天を殴られた。
「うぐ…」
思わず頭を抱え、
「い、痛いです――」
「痛いですじゃないわよ!!いきなり人の太股触って――」
結んでいた紅茶で染みの出来たスカートをほどき膝まで隠すと、もう一度拳を振り上げて――、

「い、『癒しの力』を使おうとしたんです!」

クロードの叫びに拳が止まる。
「いやし?の力…?」
「はい、癒しの力です…と言っても、僕はあまり治癒行為は得意ではないので痛みを和らげたり治癒能力を上げたりするくらいしか出ません」
「…そんなことできるの?」
数日間共に居たクロードを見る限り、『奇跡』という行為が思い浮かばない。
なので――純粋に驚いた。
いや…もっと別の――、感情を抱いた。
クロードと出会った当時は始めは『天使』だから、とかきっと人を簡単に『奇跡』の力で救う事が出来るだろう…そんな風にリゼリは思っていた。
けれど、クロードの駄目さ加減に「この天使に奇跡など『絶対』に起こせない」と思いこんでいた分、驚いた。

「はい…、まあ…リゼリさんの軽度の火傷程度なら…」
そう言って、失礼しますとスカートをめくり赤くなっている肌を出した。ビクリとリゼリがその行為に振るえた。
大きな手の平が、赤く色づいた白い肌の範囲をくまなく触れて、
「ピリっときたら絶対教えてください」
「え、あ…うん…、うん。わかった――」
いつもと違う真剣な表情で見上げられ、ごくりと喉を鳴らす。
『奇跡』を体験する――その行為に緊張し、心臓が張り裂けそうに鳴る。

それは、恐怖から来たものだった。

『奇跡』など起こせない、起こらない――そう勝手に決め付けていたのは、儘ならないすべての事柄をあきらめるためだった。
見てしまい、体験してしまえば、きっと――、何もかもが許せなくなる。

『どうして』

と。叫びたくなる。
どうして、と。

抱く恐怖に耐えていると、クロードは力強く微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
そして、いつもとどこか違う表情の天使は、どこか頼りがいのある印象の笑みを浮かべ――


「ピリっときたら、失敗です」


ガンっと拳がクロードの頭に叩きつけられた。
「な、何するんですかぁ!!」
先程太股に触れたときよりも強い衝撃で思わず痛みで涙をこぼす。
だが、
「失敗って何よ!失敗って!!」
「あ、あははは。大丈夫です。ちょっと火傷が『ただれる』だけです」

ただ、れる?

リゼリの口元が引きつり、
「あほーーーー!!そんな危ないの使うつもりだったの!?」
「危なくないですよ!僕はこれでも、リゼリさんの火傷くらいならば治せます!」
胸をはる天使《クロード》の姿になぜか不安を覚え、
「それ以上ならどうなのよ」
そう試しに聞いてみた。
聞かれたクロードは貼り付けた笑顔のまま、

「……傷口が壊疽したり?」

そっと顔をそむけたクロードに、冷やすために使っていたタオルをリゼリは力いっぱい叩きつけた。
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