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【10】



 クロードは、ぽかんとして立っていた。
ミランダの残り香と渡された小瓶。小瓶には微かに彼女の指先の体温が残っている。

「アンタねえ」

呆れた声色のリゼリにビクリと身体を震わせて、
「あ、え、ど、ど、これ、どどど」
「何が言いたいのかさっぱり分かんないわよ」
と言ってカウンターの金三枚とクロードの手の中の小瓶を取り換え小瓶は、棚へと戻した。一度封を開けてあるがもともと簡単に空く瓶だ。中身もこぼれていないのなら、開封未使用で安く売ろう。そうリゼリは心中毒づいた。

"こんなもの"を使うのはミランダくらいだ、とも。

酒場の喪服の未亡人――、夜な夜な客を店の一室に導いて身体を重ね合わせてる。
まあ、客もミランダを『買う』為に酒場に訪れているようなものであの居酒屋は言葉の通り身を売って成り立っている。
男も男でミランダを買ったことは秘密にしておけばいいものの、妻子ある男がうっかり漏らした言葉に妻が居酒屋に乗り込んでくることもあり、ミランダは怒りで我を忘れる一夜を共にした男の『妻』に嘲るように告げる。

「勘違いしないで。私は買われた、貴女の夫は私を買った。ただそれだけの関係よ?何をそんなに怒っているのかしら?」

不思議なことだと言うように首をかしげ笑うミランダに『妻』は逆上し、刃傷沙汰にもなった。
ミランダは愚かな女ではない――いや、なかった。道徳も常識も備えた女性だった。
だが、なりふりなどかまって居られなかったのだ。彼女は――。
ミランダの件が発覚した時、一時騒然とした。あの女性が、あの彼女が――と。そして、町の女性はいつミランダに『夫』が寝取られるか気が気ではない。

でも、リゼリはミランダは嫌いではない。

彼女の事情なんて本人の本音以外、口さがない連中の噂話を聞けば大体わかる。
馬車の事故で亡くなったミランダの夫の『居酒屋』を失わせないために――、精魂こめて働いていても経営が成り立って行かなくなったのだろう。

だから、男が出す『金』につられた。

リゼリは思う。
ミランダは嫌いではない――。彼女は今、自分にできることを精一杯しているのだから。

(でも、あたしに媚薬調合を依頼するのもどうかと思うのよね~)
媚薬がほしいと頼み込んできた彼女を思い浮かべる。

「避妊薬もある?」

町の人たちに白い目で見られながらも、ボロボロだった泣きそうな彼女が頼った唯一の人間。
そして、――リゼリが店主となって初めての依頼。
どんな事情であれ、『薬師』として初めて必要とされた―――。


 「え?あ、の?」

手の中の金貨に目を白黒させているクロードに呆れたように言う。
「だって使わないでしょう?まあ、アンタが自慰行為にこう言ったの使いたいなら別にいいけど」
「じ、自慰っ?!しませんし!使いませんよ!!」
リゼリの言葉に顔を赤く染め上げて叫ぶ。
「天使だもんねー。肉欲に染まってないもんねー」
嫌みにも聞こえる返答に、クロードは肩を落とした。
「あの、時たま思うんですが…天使も人も同じ神の創造物ですよ?」
「? 突然なに――」
「生まれたての天使ならいざ知らず…、僕はこれでも古の時代より『存在』している天神の眷族たる『風雷の神』を主《オヤ》に持つ初現の天使です。生まれたての、真っ白な『存在』ではないですよ?」
いぶかしむリゼリにクロードは大きくため息をついた。
「喜怒哀楽の外にも『欲』は存在ましますよ」
「……、じゃあ――『肉欲』あるの?え、じゃあ使う?」
目を丸くしてリゼリは棚に戻した瓶を再び取ろうとすると、
「使いませんし、要りません」
きっぱりと断るクロードを瞬きして見つめ、
「驚いたわ。天使って汚れてるの?」
「汚れているの意味がどういう意味なのか分かりませんが…、多分リゼリさんが考えるよりも罪深く欲深い生き物ですよ――天使は」
その言葉に、クロードは自嘲する。
リゼリに苦笑いを向けて、そしてかつてを思い浮かべて、

「昔、そうですね。昔の話です。ある天使が、姉天使を人間に殺されました。人と戦争していた時代ですから、敵となる存在は、人間です。人間を困らせることに生きがいを感じていた天使は、姉天使を殺した人間を殺し回りました。殺して、殺して、殺して――戦争が終わっても殺して――、最後に『主神』に討たれてしまいました」

「……?」
「初現の天使と言うのはそんな中を、殺し合いの中を生きて、生き抜いて――そして今でも生きている『天使』の事を言います――、長い時の中で…変化して当時の憎しみや怒りを昇華させてしまう天使もいます。認識の変化、感覚の変化、想いの変化」

「……」

「僕はきれいな空が大好きです――。この世界の、『空』が…。できる限り、護りたいとも――愛したいとも思います。何を犠牲にしても、とは言いません。僕には『犠牲』にできる物は何もないので」
「何も、ない…?」
「無いですよ。僕は、今まで地上に関心を向けてきませんでしたから…。食事を取る行為すら、リゼリさんが教えてくれなければしませんでしたし、紅茶も料理も全てが初めてです」
その行為が楽しいかのように笑う。
実際、リゼリと共に居る際は殴られるので脅えという恐怖心が出てしまうが、一人でこっそり気づかれずに『練習』してる時は、出来具合に落ち込んだり――美味くできたら喜んだり――。

「色々なことを教えていただいて感謝しています。その分――僕はあまりにも"足りなさ過ぎる"事を実感させられましたが…」

哀しげに微笑んだクロードの笑みを、リゼリは困惑した表情で見つめる。
(かんしゃ…なんて…)

言われる筋合いじゃない。

「もう少ししたら、きっと『何を犠牲にしても』…なんて言えなくなります。交わした言葉や、笑い合ったことを覚えている限り…僕は切り捨てられない…」
少なくとも――。
「困っている人がいるなら何かしてあげたいと思うんです…"足りない"くせに…駄目な…本当に駄目な天使です。僕は――」

店内が朱色に染まる。
気がつかなかったが、既に夕方だ。

深紅の目をした天使は――今にも、泣き出しそうな眼差しで―――リゼリに、



「この店に、僕を留めておく意味を――理由を、本当の『理由』教えていただけますか?」


緑の髪の天使が、そう、リゼリに問う。




***



 深夜、ざわめきがかき消えた居酒屋『ミュフェル』。

一階の食堂の脇の階段を上ったると数個の部屋がある。ミュフェルは貸宿としても機能している。
その一室にこの店のオーナーの女性、ミランダがいた。
艶めかしい肢体に情事のあとを匂わせて、洗いたてのシーツの上で胸を上下させていた。
オレンジ色のランプが照らす夜の部屋に、ミランダ以外の存在――男がいた。
先程までミランダと情交を交わし合っていた男は、脱いだ服を着込んでいる最中だった。
そして、テーブルの上に置かれた紙袋をミランダに問う。
「これですか?」
「ええ、リゼリ…ちゃんの、ところの風薬、よ」
男の問いかけに息絶え絶えに答え、身を起こす。
心地よい快楽にゆだねた身体にミランダは喉を鳴らした。
「その身体でどこにこんな元気があるのかしら…?ねえ、おじいさま?」
くすりと笑う。
「おじいさま、とは。貴女のパトロンの一人ですよ。旦那様、になさい」
「あらあら、まだまだお若い――と言いたいのかしら?」
寝台の上から降り、ミランダはシャツと下衣《ズボン》のみの男に腕をからませた。
「貴方の望み通り、私は動いたわ――。そんなに心配なら自分で逢いに行けばいいでしょう?『彼』はそうね…頼りない感じがしたけれど、リゼリちゃんの良いストッパーになりそうだわ」
くすくすと笑うミランダは、男に口づけを落とし――、
「貴方の言う通り、私は『薬』と『彼』を見てきたわ――。今日は弾んでくださるのでしょ?」
囁き、男の胸に顔をうずめる。
男は口角を吊り上げて、

「ええ、もちろん――」

男は、ミランダに貪るような口づけを落とした。



***



 深夜――、クロードは裏庭の屋根の上のに飛び上り――夕方の出来事に思いをはせる。

理由《ワケ》は答えてはもらえなかった。


「……、そろそろ…何らかの形で連絡を取らないと…」
『天使長』が切れそうだ…。
ブルりと身振るいをした。
そして、夜空を見上げ――ちりばめられた満天の星を見つめる。
『闇』は大地神の眷族神の『領域』。
炎で熱せられた地上の熱を奪い、静まらせるためのもの。
夜は『夜天の王』が支配する。

リゼリと出会う、少し前――その王へ一度目通り適った時、滅びを感じた。
厄介事を下界に持ち込んだ天使共、と言うふうに一瞥された『夜天の王』の眼差しにただただ恐怖しただけなのだが…。

「金一千万枚を用意して、解放してもらう…にしても難癖付けられますよね…」
天使だから手放したくない、と言う感じではない。
まして、ミランダが言っていた片想いなどあり得ない。
なら、

「僕がここに居る意味は、何?」

それ以前に、逃げようはいくらでもある。
リゼリを襲って聖石を奪って逃走――。
けれど、それは『天使』として矜持に反する。
一度、『約束』したのだ。違えることはしない――したくない。

「僕で『力』に慣れることがあれば――なるのに…」

そう、言葉が漏れる。
そして、俄かに町の北東部が騒がしい気配を感じた。
人々――『魂』が動く――そんな流れを。

「? なにか――、なんだ?」

クロードは屋根の上からポツポツと増える灯りに眼を凝らし――。
表通りに微かに人の気配――『魂』の気配を感じた。
夜目は利かないが――建物と建物の間に――人がいる。手には携帯用の小型のランプ。
微かに、その人物の服の色を表し――、

「……国軍兵」

その緑と茶色の色合いを見て取った。
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あらすじ。

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クライン領「ハーバル町」の薬師「リゼリ」(金銭貪欲)にうっかり弱みを握られてしまった(もとい、リゼリの裸を見てしまった)
天使「クロード」(綺麗事大好き)のドタバタ繁盛記(コメディ)(?)。

※暴力表現とか流血表現とかあります。
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